
Arts Managerを志すwackyのロンドンからの徒然メモ
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昨日、ある人と夕方会って、御飯を食べた。あんまり詳しく書くと彼に迷惑がかかる可能性があるので、まぶし気味に。苦笑
面白くて熱い人です。そして、恐ろしく誠実で深い。音楽に真正面から向かっていて、これがプロなんだっていう高い意識を持った人。私が嬉しくなってもしょうがないんだけど、話してるだけで得ることが多い人。この人のためなら何をしてでも良い仕事したいよなぁと無条件に思っちゃうような人。 初めてちゃんと会ったのに、6時に会って、11時まで白熱トークてんこもり。美学的な話も一般哲学的な話も社会学的な話も全部が、そうそう!そうなんだよ!って2人で大盛り上がり。日本人演奏家が求めるべきクラシック音楽像だとか音楽とはなんぞやとか、日本文化の本質とか。でも、彼はちゃんと地に足がついていて周りをきちんと見渡している。 彼は大物になります。 ならなかったら、私が怒ります。笑 って、すでに大物なんだけど、 あれだけ模索して追求しているんだから、きっと形になって見えてくると思う。彼の音楽性で世界に「日本」を表現していってもらいたい。 私が常日頃から思うのは、良い音楽を表現したいと思ったら、まず自分の内面を磨くこと。テクニックを磨くことも重要。でも、それ以上に、感性であったり人間性であったりが磨かれていなければ、音楽がそれ以上のものになりえない。音楽は正直だから、その人と生りを全て映し出してしまう。だからこそ、偉大な音楽家は人間としても成熟していて深みがある。それを彼はきちんとわかって、謙虚な姿勢で音楽の道を真摯に歩んでいる。 それにね、嬉しいのは、日本のクラシック界の前線で活動する彼と違って、私は「ただの人」なのに、彼はきちんと私の話を聞いて、考えて、応えてくれる。聡明で温かい。 彼が帰国前にリサイタルで英国内を数カ所回るかもしれないという計画が密やかにあります。とゆーか、私がマネジメントをするらしいんだけど…。でも、もし本当に関わらせていただけるのなら、私、頑張っちゃうよ。笑。何を置いてでも、最高のものを用意したい。そのときは、皆さん、是非聴きに来てくださいね。(会場は本人の希望で、小さい教会を予定しています。) PR |
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日曜日。
前から決めていた通り、同居人とロンドン中心へ、Winter Wonderlandを見つけに行こうツアー決行。家からSt Johns Woodを抜けて、Regent Parkへ彼の建築学案内を聞きつつ歩いて行く。 Regent Parkは本当に綺麗。紅葉も今ぞ、って感じ。黄金色の木々に青空。 Regent ParkからMaryleboneに抜けて、Bond Street。途中、ベルリオーズが滞在したという家を見つけて一人、大はしゃぎな私。 Wigmore Streetを抜けて同居人がこよなく愛するRalph Laurenへ。Ralphはluxuaryそのもの。Burberryも見たけど、なんだか居心地が悪くてすぐに退散。いろんなお店をぐるぐる見て、Harry PotterのDiagon Alleyモデルの通りを抜けて(彼は私以上にポッタリアン)、それから目的地のRegent Street。超ビックリするほど豪勢ではないけど、でも雰囲気がいい。 何も買わないのにLibertyに行って、クリスマスショッピング気分に二人で浸る。苦笑。そのあと、銀座のとは比較にならないぐらいクラシックな建物にあるApple Storeで一休み。ディナーは同居人チョイスでMayfairにあるホテルのラウンジバー。最近なぜかお腹があんまり空かなくて、美味しいのにサラダ食べるのに一苦労。←でも、すっごい量なんです! 帰りは、クリスマスが待ちきれない小さな路地をテクテク。本当に絵はがきにしたいぐらいこじんまりして可愛い抜け道。大通りのイルミネーションなんかより、よっぽど素敵。写真取ろうとしたら、目に焼け付けた方が美しいよって言われて、一理あるなと思って断念。だから、日本もどる前にまた行くよ。場所覚えてないけど。笑。我が歩くAtoZとともに行くさ。 同居人と出かけるといっつも言われること: Look, now you dont want to go back to Japan, do you? やっぱり言われた。でも、本当にその通りで、この人はいつも私が見たこともないようなものをひょいって見せてくれる。それで、単純な私はますますこの国が,ロンドンが好きになってしまう。 家を出たのが13時半、家に帰ってきたのが夜の10時すぎ。帰ってきてからLord of the Ring 3を途中から見ながら、棒のようになった脚へ休足時間。眠いのに2人で意味も無くOasisの密着番組を見て、ベッドに戻ったのが2時。本当に疲れた。歩き疲れた。でも、久しぶりに大笑いしたし、何をそんなに話してたのか記憶に無いけど、本当に楽しかった。毎日部屋に缶詰でひたすら読んでただけだから、人と話すのに飢えてたみたい。ってゆーのを、ヤツも感じ取ったみたいね。笑 頑張るよ、この街で働きたいもん。 ひとまずエッセイから地道にね…、地道に。 |
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2006年11月20日(月) 午後7時開演 英国王立オペラハウス (コヴェントガーデン) P.I.チャイコフスキー作曲 A.S.プーシキン原作 オペラ『スペードの女王』 F.ツァンベッロ監督 S.ビシュコフ指揮 英国王立オペラハウス管弦楽団 * * * * * * * 社交界デビューしました。笑 初生オペラ。 感想。 Absolutely stunning。 面白いなと思ったのが、客席のある一定の箇所に舞台に向けてモニターが3台設置してあって、オケピッドの指揮者が映るようになっていること。あれがないと歌い手やダンサーが指揮者を見ることができないポジションがあるからだけど、文明の進歩がこんなところにあるとは思わず、意外な発見でした。 会場内そのものは予想よりコジンマリしていて、でも豪勢。伝統の重みが建物そのものからにじみ出てくる。シートは圧倒的に都内Sホールの方がいいけれど。苦笑 バーやレストランも充実していて、こういうのは日本にはないよなぁという空気が流れていました。なんていうか、休憩時間もオペラの余韻にひたることができるというか…あの日本の休憩時間の乱雑さがない。 お客様層は、席種で歴然。当然ですが。でも、皆、想い想いの服装でみえていて、70歳ぐらいのなのに仕立てのいい赤いスーツをお召しの老婦人や、 dress codeあったっけ?というぐらい正装している方、いかにもビジネスですって言う感じの日系商社マングループなどなど。見てるだけでうきうきしちゃいます。 オペラ自体は、ロシア物語が持つ悲劇的な側面とチャイコフスキー独特の華やかな側面が対照的で面白かった。それにしても、衣装や小道具、舞台装置、証明はよく練られていて圧巻。歌い手はロシア語上演ということもあって、ロシア系歌手が多かった。 一緒に行ったBrit知人も初めてオペラハウスに入ったとかで、楽しんでた模様。良かった。 でも、なんかちょっとちがうよなって思った。オペラはやっぱりブルジョワジーの産物なのかなって。ただのクラシックの演奏会よりも更に敷居が高いし、巧く言えないけど、私が目指したい演奏会像とは離れてる気がしたかな。 さて、次は…。ヴェローナですな。うんうん。 もちろんオペラハウスにも見に行くけどね。 |
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今日、EAPの授業で英国の成績判定について少し話題がでた。
70% + : 1st - Top Grade 60-70& : 2:1 - Upper Second 50-60% : 2:2 - Lower Second 40-50% : 3rd - A Third 35-40% : pass - Border Line というようになっていて、評価が71%以上であれば、1st、つまりA判定になる。初めて知ったことだけれど、エッセイで成績が評価される場合は、通常2人以上の講師もしくは教授が読んで評定するとのこと。特に、大学外部の専門家、他大学の教授および講師が目を通すこともしばしばあるらしい。 それで、実際にネイティブが書いた1st判定とfail判定を受けた同じ課題のエッセイを授業内に読んだ。私たち留学生には読みやすいと評判だった方が、failのエッセイだった。一方で、かなりダイレクトにバンバン記述してあるほうが1st。何が違うのか。 一番大きな差は、自分のthesisに対するサポートの差。Quatationやparaphrasingの使い方が歴然。それから、トピックの展開方法。もちろんダイレクトに展開すべきなんだけど、それ以上に読み手を意識して展開してあった。無駄を省いて、コンパクトに、でも鮮烈な印象を与える、読んでいる教授がpleasureと感じられる内容を書くこと。それが、キーみたい。 目から鱗だなと思ったのが、エッセイはただ自分のアイディアや意見を既存文献を証拠にして書くのではなくて、demonstrate your knowledgeの場であることということ。あぁ、そっか!って思った。納得。納得。 さぁ、しっかりdemonstrateしなきゃ。これだけ私は理解して、発展的に捉えているんですって。最近、やっと糸の端々がつながり始めてきていて、今までウンザリだった資料読みも楽しくなりつつある。なんだかワクワクしてきた。エッセイ2本、頑張るぞー! |
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昨日、特別にMusic AestheticsのLecturerであり、私のsupervisorでもある教授がtutorialを設けてくださいました。というのも、criticsに関するエッセイの構成が全く考えられなくて、お手上げ状態だから。
前回授業内規定のtutorialは10分間で思うようにnarrow downできなかったアイディアを、昨日は45分かけてゆっくりみつめました。混乱していた原因もわかったし、エッセイに盛り込むべき問題点も見つけられたし、本当に充実。同じグレー色の空なのに、tutorial後はなんだか心持ち晴れて見えたぐらいスッキリ。 途中、来年はどうするのっていう話やマネジメントの話もして、私はgoldsmithsが好きだから残りますって言ったら、へー?どこが好きなの?って質問攻め。 Goldsmithsは人が温かいと思う。例えば、私の教授のようにどこぞのわからない学生もまるで家族のように接してくださる。スタッフだって、いつも親切。それに、学生もいろんな人がいて、特に年代層の広いから、私にはとっても良い刺激。 もちろん勉強面のサポートが第一のtutorialだけど、精神的にもtutorialがあると(準備は大変だけど)落ち着く気がする。 苦戦しているのはやっぱり教授にも見えているようで、でも「現地学生だって100%理解出来るものじゃないから、僕だってまだまだわからないことだらけだから大丈夫、日本から来た君が突然全部わかったら僕が困っちゃうよ」って。「それに、君にはbrianがある。いつの日かマネジメントじゃ、自分を持て余す日がくるかもね」だって。 どうなんだろう。 私はマネジメントが天職のように感じるけれど、一方で研究者タイプでもあると思う。だけれど、あの体中の血が駆け巡るような音楽を世界中にいる人と共有したいんだな。だから、まだ今は未来はわからないけど、とにかく今は今できることに全力でぶつかっていくしかないんだよね。 あ、そういえば「もういらないからあげる」って文化政策に関する本を2冊もいただいちゃいました。ラッキー。でも、これって冬休み中にちゃんと読めよってコトなんだろうか…うう。。。 |
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さっき、同居人と指揮者について話していて、
我ながらすばらしいこと言った。笑 指揮者とは、画家のような存在である。 作曲家が残した譜面にのこした風景や情景を巧みに読み取り、オーケストラ奏者という素材をつかい、そして指揮者自身の彩り(思惑)を加え、音を絵の具として、新しい場面を自在に描く画家である。 と、ぱーんと思い浮かんで、同居人に上のまま言ったら、ソレまで異様に否定的だったのに、一気に納得したらしい。笑。自分でも、名言だったと思う。苦笑 でも、これ本当です。 同じオケでも指揮者が違うだけで、 音が大きく変わってしまう。 ウソみたいだけど、本当です。 指揮者は勉強家だし、理性的。 全てを常に鳥瞰している。 すごいよね。 |
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St Paul's Cathedral Sunday Recital 12 November 2006 at 17:00 Simon Williams (Org) 2006年11月12日(日)17時開演 セント・ポール大聖堂、ロンドン オルガニスト:サイモン・ウィリアムズ ♪ Cesar Frank (1822-1890) Choral No 3 in A minor J.S.Bach (1685-1750) Adagio e dolce from Sonata Mo 3 BWV 527 Louis Vierne (1870-1937) IV Quasi Adagio; V Final from Symphony No 3 i F# minor * * * * * * 初めて真面目に教会でオルガンソロを聴きました。 荘厳。 の一言につきます。 あの石造りの、見上げると首が痛くなるような大聖堂で、音が本当に降って響いてきます。かと思えば、低音は下からビーンって振動がくる。 プログラムがすべて「第3曲」から選ばれているところに、三位一体を意識しているのかと安直に思ったりもしますが… 以前にピアノフェスティバルに参加したときにも感じたのだけれど、欧州では教会を演奏会会場に使うことが頻繁にありますが、これは奏者にはとても難しいのではと思います。というのも、教会によって残響時間や響き方が全く異なるからです。つまり、全ての音響効果をきちんと把握して演奏をしないと、惨憺たることになります。 例えば,ペダルやどうやって音を切るか、フレージング、テンポ、そして選曲そのものも、残響や音響効果に大きく左右されます。昨日も3曲目の細かい刻みのパッセージは、ただぼやっとしたクラスター(音の固まり)のように聞こえました。それが、作曲者や演奏者が意図したことなのかどうなのかはわかりません。 逆にいわゆる教会音楽やコーラスは、あの残響効果があってこそのものです。その余韻が次への「間」を生み出して、より効果的な音楽を生み出しているのだと思います。この空間で、和声音楽が誕生せずに、先に多声音楽が栄えたのがよくわかります。 それにしても、大聖堂。 本当に厳かな空間です。 精霊たちへの祈りなのか、 はたまた、神へ畏敬の念なのか。 これが音楽なんだなぁと久しぶりにmusical momentsを楽しみました。 |
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今日は、Remembrance Dayでした。
あの赤い花のバッジの日です。 第一次世界大戦が1918年11月11日に終戦を迎え、「Armistice Day」として知られていましたが、第2次世界大戦後に「Remembrance Day」と改名され、2つの大戦中に、そしてその前後の内紛等で命を落とした全ての兵士、民間人を追悼する慰霊日として定められました。さらに詳しくは,コチラご参照ください。 ラジオもテレビも、公共施設も、お店も今日11日の11時から2分間の黙祷を捧げました。「We will have the silece for two minutes from 11:00 for people died in World Wars.」などと言った張り紙があるお店も目立ちました。 もちろんGoldsmithsからも全学生/教員/スタッフ向けにこんなメールがきました。 The College will recognise a two-minute silence at 11am this Saturday, 11 November, in remembrance of those who lost their lives in the two World Wars and later conflicts. The College flag will fly at half-mast during Remembrance Day (Saturday) and Remembrance Sunday. こういうのって日本にはない習慣だと思う。確かに、8月15日に終戦記念日があってNHKなんかではちゃんと12時にあわせて,黙祷するけど、でも老若男女問わずに皆が感心を持って、自分から黙祷するっていうわけではないじゃない。ロンドンの地下鉄で、この1週間の間にどれだけ赤い花のバッジをつけている人をみたことか。テレビのプレゼンターはバラエティーでもつけている人ばっかり。 日本はそれこそ空襲だらけで、食べ物もなくて、皆死に直面して文字通り「必死に」生きていたのに、私たち世代がそれをどれぐらいappriciateしているかというと、たぶんこの国とは比べられないレベルだと思う。戦没者追悼や戦争の意義を考え直すとかそういう高尚な考えも大切だけど、それよりも少しでも国民が感心をそこに持つことが大切なんだよねと思ったり。。。 明日は、St.Paul CathedralのRemembrance Sundayサービス一環のOrgan Recitalに参列?してきます。 |
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他人と生活するって下らないことで気を使う。
それに、どーでもイイことが気になったり、どーでもイイことにイライラしたりする。(ごみの出し方とか、食器の洗い方とか、使ったら自分で洗えよとか、私は便利屋じゃないよとか。)もちろん私だって、知らないところで気を使わせてるだろうし、イライラもさせてるんだと思う。というより、思いたい。だから、お互い様だと思う。 同居人は来年も私とシェアする(新しいフラットに引っ越して)つもりでいるみたいだけど、私は100%本気で「いいよ」って言えない。一人で住みたいたいとも思うし…(もちろんシェアした方が安いんだけど)。 We both think alikeだと思っていたけど、実はかなり違う。そりゃ人間ですから当然と言えば、それまでだけど。 何が嫌だからっていうのがハッキリ言えないし、思いつかないんだけど、たぶん何気ない生活の癖とか、価値観や金銭感覚の差が、無意識のうちに私に彼に対する多少の違和感をもたらしてるんだと思う。 祖母に育てられて、もったいない性の私には考えられないというか、ちょっと!って思うことが多々ある。電気とかお水とか。なぜ家を長時間(1時間以上)空けるってわかってるのに、暖房やパソコン、ライトをつけっぱなしで出て行くのか。ライトは用心としても、暖房はいらないじゃんと思う。クールビズ/ウォームビス精神だって当たり前だよ。夏にセーター着るなら、冬にはもっと保温性高いセーター着れば良い。高いって言うなら、脳ミソ使って節約しろよって。(確かに頭はいいけど、生活能力とか応用能力がないのかもとときどき感じる。) ちょっとの工夫で、もっとエコロジカルに地球に優しく経済的に暮らせるのに。 それに、彼は見てる限り、かなり派手に消費する。太っ腹といったら聞こえが良いけど、ご両親のサポートが今年までだからって思っているからなのか、ほぼ決まっている進路先の収入に安心しているからなのか、毎日外食したり、高いもの(ブランド系)も毎週のように買ってくる。聞けば、いつもホテル内のかなり良いレストランやバーで食事してるらしい。私のお金じゃないし、私に損害は何一つないんだけど、でも、ちょっとなんだかなぁって思う。 私も両親が全面的に資金を出してくれて、ロンドンに留学している。両親のお金で生活させてもらってる。私のお金じゃない。だから、自分で稼いだお金以上に大切に使いたいと思ってる。(といいつつも、演奏会に足げく行っておりますが…) 私がいくら使ったところで、きっと両親は何も言わないし咎めたりしないと思う。だからといって、湯水のごとく好きなように使うことなんてできない。だって、もう23だよ。本当なら働いて自分で稼いでるべき歳じゃない。 自分が稼いだお金なら、どう使おうと勝手だと思う。だけれど、お金を無惨に使う人って、やっぱり無惨な人だと思う。モノを大切にするとか地球に優しいとか、社会道徳的な価値観や人道的な価値観というか、平衡感覚は失いたくない。自分の周りやステータス、交友関係が変わることで、それなりに生活における価値基準も変わると思うよ。でも、今は「学生」じゃない。例え、大金持ちになったとしても、私は質素な生活が良いと思う。 質素ということは、決して貧乏といことじゃない。ケチケチ生きるってことでもない。シンプルで気持ちよく暮らすということ。多少の贅沢は必要だと思う。そういう贅沢を本当にたっぷり過ごすために、質素に幸せに生活することが、贅沢をより贅沢にさせるんだと思う。何も金銭的なことだけじゃなくて、時間そのものの「質」が本当に大切なんだと思う。 ちょっと頭を使えば、いっぱいのお金を使わなくても、もっと幸せに心豊かな温かい生活が送れる。もしかしたら、手間ひまもかかるかもしれない。でも、そうやってちょっと時間をかけると意外な発見があったり、小さな幸せが見つかったりして、もっと楽しくなる。 いつか仕事に時間に追われて、お金をかけることしかできなくなる日がくるかも知れない。でも、それはそれでいいと思う。それでしか、安らげたりゆっくりしたり「質」を維持する方法がないんだったら、そうするしかないと思う。でも、それはまだまだ先のこと。今の私がするべき選択じゃない。 私って、やっぱりただのケチケチ貧乏性なのかな。 同居人を否定するわけじゃない。彼の人生なんだから、彼の思うように暮らせば良い。ただ私とは根本的な考え方が違うっていうだけ。良い友達でいるのと、良い同居人でいるのは難しい。でも、彼との同居生活が全てイヤって言うわけではない。楽しいことや救われてることも沢山ある。彼がいてくれると安心することだっていっぱいある。他人と暮らすってきっとこういうことなんだよね。 |
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No Pain, No Gain.
苦しみがなきゃ 得るものすらみえない。 そうかもね。 前にも書いたけど 逆境こそ人生の成長のときである ってことだよね。 未来の私に恥ずかしくないように 未来の私が後悔しなくていいように。 ここ一歩、踏ん張っていきますか。 |
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